2012年5月23日 湯江宿~多良宿
自然の道が残っていた
湯江駅~湯江宿~山茶花茶屋跡~古賀宿~多良宿~多良駅
hirokoパパさん hirokoさん ISさん みつばさん ミーさん そよかぜ
歩行距離22.8km 行動時間8時間 標高差+814m -810m
多良海道歩きの2回めです。今回は湯江駅から続きを歩きます。
前回到着時間が早かったのにもかかわらず、湯江で終了したのには訳がありました。多良海道は永昌宿(諫早)~湯江までは比較的海に近い場所を歩いていきます。鉄道も近く交通の便も比較的いいのです。しかし、今まで北西に歩いてきた街道は湯江宿で北に進路を変え、海のそばを離れ多良山系の方向へと進みます。と言うことは、鉄道もなく、バス停もほとんどありません。ので、下手に入ると日が暮れてしまいます。
マイカーで出発地へ行き、到着地から鉄道で出発地へ戻ることにしている私たちは、小刻みに刻んで行かなければなりません。今回はほとんど山中を歩くことになります。
まずは湯江にある和銅寺に立ち寄ってみました。
ここは古い創建のお寺のようです。
和銅と言えば「和銅開珎」ですねえ~
これを 「わどうかいほう」 と読む 貴方 古いです。今は 「わどうかいちん」 が主流です。笑 そのことについてはネットで調べると出てきますのでよしなに~ 調べる時も わどうかいちん だったらすぐに出てきますが、わどうかいほう だったら漢字もでてきません。まあ、私のようににわか歴史愛好家はどっちでもいい感じもしますけどねえ。
ここのお寺の仁王さまはすごいですよ~ もう朽ちようとしていますが・・・ こんな貴重そうな仁王さまはほぼ雨ざらしだし、触れることもできるんですよ。
ここには龍造寺隆信のお墓もあります。
龍造寺さんについては以下の説明文で~
さあ、湯江駅に移動してhirokoパパさん方と合流しました。まずは平田川の地蔵さまにご挨拶。
いきなりではございますが、本日の一番お気に入りのエビス様です。いい笑顔ですねえ。
なんとなく街道らしい曲がり方。
この境川には釣戸の渡しという所があったようですが、今は・・・ 写真ではちょっと上流のあたりのようです。
橋から下流を見ると、向こうには雲仙が見えていました。
川上神社は鳥居が四つもあります。三つあるのは格式が高いと聞いていましたが、四つは・・・?
絵馬がいっぱい。
この追分石は竹崎街道との分岐です。左たらだけみち 右たけざきみち と書いてあります。竹崎街道は主に町人が使っていたようで生活道路だったみたいです。長崎県内の標識はこういう石の物がたくさんありますが、最近作られたもので、〇〇跡という案内の物ばかりで、原型をとどめているものは少ないようです。
今回のルートは自然の道が多いですよ。
こんな場所や
こんなところ
そのままの形で残っています。
しかし、どこが入り口か注意してないとさっぱりわかりません。なんの案内もないからです。これは出てきた場所ですが、どこから出てきたかわかりますか?そう、電信柱の横です。地図を念入りに見てないと、あっという間に違う道を歩くことになってしまいます。街道歩きとしてはそれでは意味がありませんからねえ。
ちょっと捜索して見つけた猪の塔。これは鉄砲の名人があまりに多くの猪を殺してしまったので、供養のために建てたそうです。入り口は草や木々に覆われていますが、それっぽい階段があるのが目印です。
そしてそのそばに倒れているのは多良岳一の鳥居跡です。何の案内もないので、調べてないと見落とします。
そしてまた山に突入。目印はどなたかがつけてくださったようで、ペットボトルにマジックで多良道とかいてあります。でもこれもよく見ないと見落としますよ。
けっこうな山道を汗をかきながら歩き、井崎橋までやってきました。資料によると、ここよりかなり離れた井崎部落の人が普請するように頼まれて作った橋とか。
途中田んぼに肥料を巻いている所に遭遇。それがまるでミレーの種まきのようで見とれてしまいました。
お腹もすいてきたので、山神溜池をみながらお弁当。いい場所でした。
元気を取り戻し、長坂という山道を登ります。これはほとんど山登りでしょう。
出てきたところは山茶花茶屋跡。近くに山茶花高原ピクニックパークがあるけど、山茶花と言う地名は昔からあったんですねえ。知らんかった。
となりは山茶花神社。
薊の生い茂る道へ突入。
すぐに郡境石が現れました。 北藤津郡 南高来郡 とあります。
これは多良海道編集委員会が作った立派な記念碑です。
いよいよ佐賀藩に突入。こちらは八天神社。
七曲と言う道も自然道。ここはけっこう長がかったですよ。
出入口にはちゃんと案内板があります。長崎県の方はほとんど案内板なしで、道もかなり注意してなければ分からないのですが、佐賀県はちゃんと各所にこんな標識があります。黄色で目立つのでわかりやすかったですよ。
景色がひらけ、太良の町や有明海が広がると気分も明るくなります。旅人もきっとそんな思いがしたのではないでしょうか。そんな所に弘法大使像があります。
太良町には二つの宿場があります。古くは古賀宿と言われた山手の道が使われていたようですが、水害で壊滅したために海側の方に道ができました。そちらが多良宿です。案内は古賀宿を通る方に導いてあります。
お~ また山道。
さらに~
なかなかで~す。
佐賀県に入ってから見どころが少なくなっていましたが、宿場に近づくといろいろありますね~。こちらは六地蔵。
こちへおいで と言っています。
そしてみんなびっくりの藁ぶきのお寺、誓願寺。
本堂も素晴らしい。
極彩色で彩られています。でもどうして像さんなんでしょう・・・?
それからもアップダウンを繰り返します。
そして、夏坂という所。
ここを下ってしまうといよいよ古賀宿は近い。
出てきたところですが、案内標識がないと分からないかもね。
今回は途中から多良駅の方に向かい、列車で湯江まで戻る予定です。ところが駅で時刻を見ると2時間余り待たなければなりません・・・ バスでも不便。で、多良宿の方まで行ってみることにしました。こちらは大魚神社。この神社にはいわれがあるそうです。
昔悪い代官さんを村人が沖の潮が満つと沈んでしまう島に取り残した。代官が祈りをささげると大きなぶりが現れ、背中に乗って戻ってきた。それで、地元の人は大きな魚は獲らないようにしている。大きな魚を取った人も何も言わずに前を通る とか。
多良川から見ると多良山系。
ちなみに 山は多良山系 駅は多良駅 役場は太良役場 当然町名は太良町
ゆっくりと見て回り、また駅に戻ってきました。
本日のルート
歩いた多良海道
さて今回のルートですが、標高差は見ると+-800mぐらいあります。これは十分に山登りです。最高点は400mを越えています。冷水峠が330m 俵山峠200m 鈴田峠240m 日見峠270m と比べてもきついルートだとわかります。
なぜこんなにきつい道を利用したかと言うと、
佐賀藩が長崎の警備をまかされた時に、最初は俵山峠を越えて大村藩を通って長崎へ向かっていたが、途中の塩田道が度々川の氾濫で通れなかったこと、途中の大村藩と仲が悪かったこと、などで多良道を作ったようです。
前回歩いたルートも今回のルートも長崎街道と呼ばれていますが、歩いてみたらやっぱり最初の道が本道ののような感じがします。
しかし、前回のルートは98%はコンクリートの道だし、開発によって通行困難な場所も多かったことを思うと、自然いっぱいの道で、往時のままである場所が多い点ではこちらが勝っていると思います。
さあ次回は多良宿から鹿島城下まで歩こうと思っています。
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多良海道歩きの2回めです。今回は湯江駅から続きを歩きます。
前回到着時間が早かったのにもかかわらず、湯江で終了したのには訳がありました。多良海道は永昌宿(諫早)~湯江までは比較的海に近い場所を歩いていきます。鉄道も近く交通の便も比較的いいのです。しかし、今まで北西に歩いてきた街道は湯江宿で北に進路を変え、海のそばを離れ多良山系の方向へと進みます。と言うことは、鉄道もなく、バス停もほとんどありません。ので、下手に入ると日が暮れてしまいます。
マイカーで出発地へ行き、到着地から鉄道で出発地へ戻ることにしている私たちは、小刻みに刻んで行かなければなりません。今回はほとんど山中を歩くことになります。
まずは湯江にある和銅寺に立ち寄ってみました。
ここは古い創建のお寺のようです。
和銅と言えば「和銅開珎」ですねえ~
これを 「わどうかいほう」 と読む 貴方 古いです。今は 「わどうかいちん」 が主流です。笑 そのことについてはネットで調べると出てきますのでよしなに~ 調べる時も わどうかいちん だったらすぐに出てきますが、わどうかいほう だったら漢字もでてきません。まあ、私のようににわか歴史愛好家はどっちでもいい感じもしますけどねえ。
ここのお寺の仁王さまはすごいですよ~ もう朽ちようとしていますが・・・ こんな貴重そうな仁王さまはほぼ雨ざらしだし、触れることもできるんですよ。
ここには龍造寺隆信のお墓もあります。
龍造寺さんについては以下の説明文で~
さあ、湯江駅に移動してhirokoパパさん方と合流しました。まずは平田川の地蔵さまにご挨拶。
いきなりではございますが、本日の一番お気に入りのエビス様です。いい笑顔ですねえ。
なんとなく街道らしい曲がり方。
この境川には釣戸の渡しという所があったようですが、今は・・・ 写真ではちょっと上流のあたりのようです。
橋から下流を見ると、向こうには雲仙が見えていました。
川上神社は鳥居が四つもあります。三つあるのは格式が高いと聞いていましたが、四つは・・・?
絵馬がいっぱい。
この追分石は竹崎街道との分岐です。左たらだけみち 右たけざきみち と書いてあります。竹崎街道は主に町人が使っていたようで生活道路だったみたいです。長崎県内の標識はこういう石の物がたくさんありますが、最近作られたもので、〇〇跡という案内の物ばかりで、原型をとどめているものは少ないようです。
今回のルートは自然の道が多いですよ。
こんな場所や
こんなところ
そのままの形で残っています。
しかし、どこが入り口か注意してないとさっぱりわかりません。なんの案内もないからです。これは出てきた場所ですが、どこから出てきたかわかりますか?そう、電信柱の横です。地図を念入りに見てないと、あっという間に違う道を歩くことになってしまいます。街道歩きとしてはそれでは意味がありませんからねえ。
ちょっと捜索して見つけた猪の塔。これは鉄砲の名人があまりに多くの猪を殺してしまったので、供養のために建てたそうです。入り口は草や木々に覆われていますが、それっぽい階段があるのが目印です。
そしてそのそばに倒れているのは多良岳一の鳥居跡です。何の案内もないので、調べてないと見落とします。
そしてまた山に突入。目印はどなたかがつけてくださったようで、ペットボトルにマジックで多良道とかいてあります。でもこれもよく見ないと見落としますよ。
けっこうな山道を汗をかきながら歩き、井崎橋までやってきました。資料によると、ここよりかなり離れた井崎部落の人が普請するように頼まれて作った橋とか。
途中田んぼに肥料を巻いている所に遭遇。それがまるでミレーの種まきのようで見とれてしまいました。
お腹もすいてきたので、山神溜池をみながらお弁当。いい場所でした。
元気を取り戻し、長坂という山道を登ります。これはほとんど山登りでしょう。
出てきたところは山茶花茶屋跡。近くに山茶花高原ピクニックパークがあるけど、山茶花と言う地名は昔からあったんですねえ。知らんかった。
となりは山茶花神社。
薊の生い茂る道へ突入。
すぐに郡境石が現れました。 北藤津郡 南高来郡 とあります。
これは多良海道編集委員会が作った立派な記念碑です。
いよいよ佐賀藩に突入。こちらは八天神社。
七曲と言う道も自然道。ここはけっこう長がかったですよ。
出入口にはちゃんと案内板があります。長崎県の方はほとんど案内板なしで、道もかなり注意してなければ分からないのですが、佐賀県はちゃんと各所にこんな標識があります。黄色で目立つのでわかりやすかったですよ。
景色がひらけ、太良の町や有明海が広がると気分も明るくなります。旅人もきっとそんな思いがしたのではないでしょうか。そんな所に弘法大使像があります。
太良町には二つの宿場があります。古くは古賀宿と言われた山手の道が使われていたようですが、水害で壊滅したために海側の方に道ができました。そちらが多良宿です。案内は古賀宿を通る方に導いてあります。
お~ また山道。
さらに~
なかなかで~す。
佐賀県に入ってから見どころが少なくなっていましたが、宿場に近づくといろいろありますね~。こちらは六地蔵。
こちへおいで と言っています。
そしてみんなびっくりの藁ぶきのお寺、誓願寺。
本堂も素晴らしい。
極彩色で彩られています。でもどうして像さんなんでしょう・・・?
それからもアップダウンを繰り返します。
そして、夏坂という所。
ここを下ってしまうといよいよ古賀宿は近い。
出てきたところですが、案内標識がないと分からないかもね。
今回は途中から多良駅の方に向かい、列車で湯江まで戻る予定です。ところが駅で時刻を見ると2時間余り待たなければなりません・・・ バスでも不便。で、多良宿の方まで行ってみることにしました。こちらは大魚神社。この神社にはいわれがあるそうです。
昔悪い代官さんを村人が沖の潮が満つと沈んでしまう島に取り残した。代官が祈りをささげると大きなぶりが現れ、背中に乗って戻ってきた。それで、地元の人は大きな魚は獲らないようにしている。大きな魚を取った人も何も言わずに前を通る とか。
多良川から見ると多良山系。
ちなみに 山は多良山系 駅は多良駅 役場は太良役場 当然町名は太良町
ゆっくりと見て回り、また駅に戻ってきました。
本日のルート
歩いた多良海道
さて今回のルートですが、標高差は見ると+-800mぐらいあります。これは十分に山登りです。最高点は400mを越えています。冷水峠が330m 俵山峠200m 鈴田峠240m 日見峠270m と比べてもきついルートだとわかります。
なぜこんなにきつい道を利用したかと言うと、
佐賀藩が長崎の警備をまかされた時に、最初は俵山峠を越えて大村藩を通って長崎へ向かっていたが、途中の塩田道が度々川の氾濫で通れなかったこと、途中の大村藩と仲が悪かったこと、などで多良道を作ったようです。
前回歩いたルートも今回のルートも長崎街道と呼ばれていますが、歩いてみたらやっぱり最初の道が本道ののような感じがします。
しかし、前回のルートは98%はコンクリートの道だし、開発によって通行困難な場所も多かったことを思うと、自然いっぱいの道で、往時のままである場所が多い点ではこちらが勝っていると思います。
さあ次回は多良宿から鹿島城下まで歩こうと思っています。
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by yamanosoyokaze
| 2012-05-24 19:12
| 長崎街道